昭和56年3月3日 朝の御理解               御理解 第37節                      「生きて居る間は修行中ぢゃ丁度学者が年をとっても眼鏡をかけて本を読むやうなものであらうぞい。」             

 合楽理念に基づく信心が有難いものになるという事は、修行が楽しいもの、修行が有難いものと分かった時、始めて合楽理念のいうなら真価を表わさして、頂く事が出来ると思うですね。合楽理念に基づくおかげというのは、修行が楽しいもの有難いものと分からして頂いた時、合楽理念が分ったとも、だから云えるわけです。しかもそれは楽しいもの有難いもの。これはたとえば自分の好きな芸事なら芸事の稽古をするでも、やっぱし稽古といやかならず修行が伴います。それは自分がだんだん上達していく事が楽しいのであり、有難いのだろうと思います。
 信心も同じです。ましてやこの信心の力がその徳があの世にまで持って行かれるというのであり、しかもこの世にも残しておけるというのであるからこんなに有難い。こんなにすばらしい稽古は又とはありません。私は今日、本当にそう思いますね。
 合楽理念をマスターするとか、合楽理念による助かりとかおかげとかいう、それが云えれるという事はもう合楽理念による修行がいよいよありがたい、楽しい。それからというて自分から表行をするような、火の行・水の行をするといったようなものではなくて。神様が適確に求めて下さるもの。それというならまあ合楽理念に基づくというは、まあ結局大ざっぱ云うて、天の心・地の心・日月の心をもって、私共がおかげを頂いていく時にいうなら。天地のように生きたいいうような願いも、先達ってから頂きますように、大河の流れのように生きたい、というような願いというものも、立てられると思うんです。
 中にも成り行きを尊ぶという事は、成り行きそのものを、有難く頂くという事なんですから。成り行きの中に、例えばきつい事があったり苦しい事があっても、尊ぶというのですから有難く。いうなら有難く修行として合掌して受ける。しかもこの受け抜いていく実験、そしてそこに生まれてくる実証がありますから、もういよいよ楽しいものになってくる。そこがすっきり一つ分かった時に合楽理念に基づく行き方・何々は合楽理念をもってする他ない。この行き方以外にない。こう云えれる時だと思いますね。
 修行ですから楽な事ではないでせうけれどもそれが、それが有難いのである、楽しいのである。もう一辛抱とこう一辛抱させて頂く事が楽しいのである。例えばここで土の心と、まあこれに徹しようと腹を決めます。まあいうなら黙って治められていく、その様子の有難さ、昨日、或る方に対する御理解したけれども、なる程貴方の話しを聞きよると、一口云うた方がよかごるのという感じですけれどもね。もう一口云うて口を切ったら価値はない。大体は、内心は同じであっても、もう口を切ったら値打ちはない。
 私は、まあだよくは知りませんけども、バーなんかにまいりますとね。例えば洋酒なんかの、まあジョニーウォッカーとかね、まあブランデーなんかでは、ナホレオンなんかという最高級のがあります。『そういうのがね、たとえそれが本当のナポレオンであったり、ジョニ黒であってもです。もう口を切っておったら、ねうちがないんだそうですよ。安いんだそうです。口を切るのが値打ちなんです。自分がそれを頂く時に口を切ってくれるそれが値打ち、そのかはり高い。中は同じであっても。そんなおしらせを頂いたんです。
 だからこげん馬鹿らしかことはないでせうが。内容にどんなに良いものを持っておってもです、口を切ったら値打ちがなくなるです。中身は同じであっても、私はそれを頂いてから本当に自分からの、私自身の体験から、ほんなこつそうだなあと思いました。
 分ったやら分らんような顔をしておられるから、なほ又お願いさせて頂いたら『云わぬが花』という事を頂きました。
 云わぬが花です。有難くそれを見守ってやれる。有難くその事を祈ってやれる、そういう修行がです。もう楽しゅうならんはずはない。有難くならないはずはない。そういう修行で一生を終止したいと思うですね。                                     どうぞ